2015年のことです、タイから帰国した足で下吉田駅を訪れました。
訪れたタイミングが観光シーズンだったのか、下吉田駅に観光客が入りきれないくらい溢れていました。駅員さんも右往左往、観光客の対応もままならない状況です。
私は、駅前のロータリーにある車止めに座ってその光景を眺めていました。
駅から出てくるカップル(その後お話をしてわかったのですが韓国人のお二人でした。)「この辺で食事のできるところはあるか」という質問です。
私も初めて来たのでその旨を伝え、いっしょにスマホの地図をのぞきこみました。
地図上で、何店舗か確認して別れました・・・ふと目をやると な、なんとその二人 ローソンのおにぎりを食べてるではありませんか。
また、車止めが何個か並んでいるのですが、そこに私同様座っている方とお話してみました。
皆さん、新倉山浅間公園を散策したあとは、河口湖や他県へ移動するらしく 富士吉田に滞在しないと なぜ?
この時、下吉田駅から市内に人の流れが作れるといいなと思いました。
その足で、不動産会社さんを回りました。
不動産会社の方が、それなら今日情報を入手したところだけどと出してきていただいたのが
この写真 改装前の「新倉」(Arakura)です。
びっくりしました。先程居た下吉田駅の目の前の物件です。素敵です。
その足で、再度現地を見に行きました。素敵です。
すぐに買付証明を出したのを覚えています。
そこから、私達の力不足のため開店まで時間がかかりましたが、右往左往しながら現在の姿に至りました。
「新倉」について
新倉では、
地域の方へ
1.健康寿命を伸ばすための栄養面のアドバイスやお食事の提供
2.コミュニケーションを図れる場所の提供
観光客へ
1.観光案内所 下吉田駅前を起点に、市内への人の流れを創出
2.歴史にふれあう街なか散策ツアーの提案
3.お食事の提供
もともとは、ここの住所が富士吉田市新倉だったんですね。開店準備中に「新倉」→「新町」へ 現在は、富士吉田市新町です。
新倉掘抜のお話も聞いていたので、これから「新倉」でやろうとしていることにピッタリだと思いました。土地の名前を残す意味も含めて。
人の流れを変えるなんてのは、数千億円の資金が動いてどうなるかというレベルだと思います。
一個人がどうこうできるものではありませんが、永続的に収益を生む仕組みさえあれば時間はかかりますが変化を生むことができると考えました。
これは、まさに新倉掘抜、苦難を乗り越え、約190余年をかけてようやく完成に至った事業
この新倉掘抜にあやかって、また土地の名前を残すのもいいかなと思い この建物の名前を「新倉」(あらくら)としました。
新倉掘抜・・・
剣丸尾溶岩台地の上にあり、「水なし村」とも呼ばれた新倉村と、水のはけ口がなく豪雨のたび に水位が上がって度々周囲に被害を与えていた河口湖との双方の問題を解決するため
両地域の間 にある嘯山にトンネルを掘って水を流し、約30町余を掘り抜いて湖水を宮川へ導いて、河口湖の減 水による湖畔の開拓と用水を確保した新倉村の新田開発を目的としたもの
1500年代の文献には「荒倉」とも表記されていたそうです。荒れていたのでしょう。
山梨県富士吉田市の「新倉」の地名の由来は、市史民俗調査報告書などに見ることができる。
報告書によると、「新倉」は1500年代の文献に「荒倉」「アラ倉」として記録されている。住民の口承として「富士山の噴煙で空が薄暗く見えたのを『あれ、暗いなあ』と言ったことから転じて『新倉』になった」という説もある。
■新倉掘抜 開発事業のなかでも、河口湖から新倉村までの農業用水「新倉掘抜」の開削は、1675(延宝3) 年に始まりましたが、幾多の困難を乗り越えて最終的な完成をみたのは、1865(慶応元)年であり、 延長約4km、総工費7千両、のべ人足約11万人を要した大工事でした。 剣丸尾溶岩台地の上にあり、「水なし村」とも呼ばれた新倉村と、水のはけ口がなく豪雨のたび に水位が上がって度々周囲に被害を与えていた河口湖との双方の問題を解決するため、両地域の間 にある嘯山にトンネルを掘って水を流し、約30町余を掘り抜いて湖水を宮川へ導いて、河口湖の減 水による湖畔の開拓と用水を確保した新倉村の新田開発を目的としたものでした。当初は残念なが ら成果を挙げることはできませんでした。 1847(弘化4)年に元禄年間に掘られた穴が偶然発見されると、新倉村の単独事業(自普請)と して修復工事に取り掛かり、トンネルの崩落等によってまたしても失敗しますが、863(文久3) ・福地用水(新屋) 第 4 章 富士吉田市の歴史文化の特徴 80 年に工事が再開、1865 (慶応元) 年に再び通水して新田開発に成功しました。秋元氏による工事着 工から約190余年をかけてようやく完成に至ったのです。